義経伝説
2006年01月15日
義経伝説 出生の地 京都牛若町
ここは京都市北区「牛若町」
義経が生まれた地といわれ、数多くの史跡が残っている。住宅地の中に立つ光念寺には、母の常磐御前が義経を身ごもった時に、安産を祈願したといわれる「守り本尊」が祀られている。また父・義朝が建てたといわれる屋敷があった場所に代々住んでいる上野家には、義経出生の伝説を物語る「版木」が残されている。
この版木には、義経が生まれたときに汲み上げたという産湯の井戸が描かれている。
畑の中の井戸の近くには、出産の時の胎盤とへその緒が埋められたと伝わる「胞衣塚」(えなづか)が残り、代々守り続けられている。
史跡とともに義経出生の伝説はこの地に脈々と受け継がれている。
2006年01月03日
義経伝説 鼠ヶ関(念珠ヶ関)
鼠ヶ関は奥羽三大関所のひとつで、勧進帳の舞台と言われている。
関所を通過する際、山伏姿の義経には重い笈(おい)、それも二個を背負わせ、弁慶が杖で義経を打って下級の山伏に見立てて関所を通ったと言われている。
関所守は、すぐに義経主従ということはすぐに分かったが、かねてから同情を寄せていたので関所を通らせたという。
本地区の原海(はらみ)の旧家五十嵐治兵エ宅に投宿し手厚いもてなしを受け長旅の疲れを癒した。その御礼にと矢立をおいていったという。
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義経伝説 鶴岡市由良の弁慶清水
山形県鶴岡市の由良(ゆら)地区には、弁慶が清水を湧き出させた「弁慶清水」がある。ここは、義経一行が鼠ヶ関を通り由良坂で休憩したとき、弁慶が薙刀で地面をつくと、そこから清水が湧き出し、一行ののどを潤したと言われている。
義経伝説 粟島の馬
江戸時代の記録ではその数およそ50頭、さほど増えたり減ったりせず、人に飼われたりすることもなく、自由に島内を駆け巡っていた。
言い伝えでは、源義経が奥州へ落ち延びる途中に、今まで共に行動してきた馬を、海に浮沓(うきぐつ…忍者が水上を渡るときにはくもの)をはかせて解放したという。

2005年12月15日
2005年12月11日
義経伝説 新しき国へ
義経にとっての理想郷とは?
一言で言えば戦のない、兄弟の諍いもない安穏に暮らせる、平和な国に違いない。父や母との別れ、辛さや切なさを背負ってきた人生、最後まで義経は、そんな理想郷を平泉に求めていたのではないか。
結局、新しき国を目前にして藤原泰衡の裏切りによって、炎と共に消え失せていった。
『仮に、この世のどこかに作れなくても、必ず生まれ変わってまた会えるから、そこで作ろう。生きている間はもちろん、死んだ後も絆は変わらない』と。これまで、苦難を共にした者どうし、主従の絆というものが揺るぎのないものになってきている。 最後の決戦、義経を一秒でも一歩でも、遠くへ導いてやるために、理想の国を実現のために盾になり、全身全霊の力をしぼりだしふんばり続けた。これが、弁慶が立ち往生で、義経を理想の国へ導いたのではないか。
こうして、実は、少なくとも義経は、いずれ平泉も危ないという進言を聞き入れて、北行を続けて行ったという。
2005年12月10日
義経伝説 笹竜胆(ささりんどう)
義経の伝説は、大陸まで続いている……。
衣川では義経は死なず、なのである。
蝦夷地、ロシア、モンゴルへと義経伝説はつづく………。
それは、源氏の家紋の笹竜胆(ささりんどう)が、数々の史跡が義経の歩行を裏付けているという。
詳細は、Electoronic Journal を参考にしてほしい。
現在、頼朝ゆかりの地ということもあり、鎌倉市ではこの「ささりんどう」をデザインして市章に制定している。
2005年12月09日
義経伝説 静御前
仙台の有名な温泉としてしられる秋保(あきう)には、義経を愛した静御前が住み続けたという伝説が残されている。また、道沿いには石の板碑があり、地元ではここは静御前の墓と伝えられている。
義経を追いかけ、その途中に静御前は疲労で倒れたところを村人によって介抱され、清水で癒されたという。泉のほとりには「御前腰かけの石」と「御前御手植のひば」がある。
この泉は現在も地元の旧家、槻田家の敷地内に残されており、地元では静御前の一途な悲恋を今も語り継いでいる。今もわき出る清水は地元の田んぼを潤し、暮らしを支え続けている。
槻田家では、静御前が使っていたといわれる茶碗を今も大切に守り続け今も、年に一度、茶碗にお赤飯等のご馳走で静御前にお供えしていると言う。
たくさんある静の伝説を調べています。
2005年12月08日
弁慶の立ち往生 義経 最終回だね。
『武蔵は敵を打払ひて、長刀を逆様に杖に突きて、仁王立に立ちにけり。ひとへに力士のごとくなり。一口笑ひて立ちたれば、「あれ見給へあの法師、我らを討たんとて此方を守ら へ、痴笑ひしてあるは只事ならず。近く寄りて討たるな」とて近づく者もなし。然る者申 しけるは、「剛の者は立ちながら死する事あると云ふぞ。殿原あたりて見給へ」と申しけ れば、「われあたらん」とて言ふ者もなし。
或武者馬にて邊を馳せければ、疾くより死したる者なれば、馬にあたりて倒れけり。』 (「義経記」より)と、最後には弁慶も全身に数十本の矢を受け、ついには薙刀を杖に立ち往生したのでした。
***今、弁慶のことを追っています。
書写山円教寺に弁慶が使った碁盤と碁石やほかにもたくさんの品々があるといいますが、どんなものがあるか情報をください。
2005年12月07日
義経伝説を行く 遠野の風呂家
民話の里遠野に伝わる「義経北行伝説」で、最も有名なものは遠野市上郷町の「風呂家」という屋号ではないか。「風呂」という姓を義経から授けられたと言うものだ。
疲弊を極めていた義経一行は、民家に風呂を所望。家人は断るどころか温かく迎え入れ、感激した義経は主人に「風呂」姓と12枚の菊の家紋を授けた。
義経に風呂と食事を提供した風呂家。当家に伝わる話として「主従14、5人がやてきた。鍋で湯を沸かし、丸太をくり抜いて作った風呂に入れてあげた。義経は背は小さく、美男子ではなかったようだ。ただ身は軽かったらしい。あれほど賢く、優秀な家来もいたので、義経は平泉でを生きて脱出した。」と800年前のことが先日のことのように語り継がれている。
風呂家を後にして間もなく義経の愛馬小黒号は力尽きた。小黒号は遠野産とされ、小黒号を祀る「駒形神社」と墓標が市内にある。遠野市綾織町には弁慶が足で持ち上げたとされる「続石」があり、その痕跡が今も残っている。