2005年11月
2005年11月29日
義経伝説を行く 五条大橋
義経の家来となる武蔵坊弁慶については、義経同様に「義経記」に縷々述べられています。また、全国各地に「弁慶伝説」も伝わっています。
京都の五条大橋で出会ったこと、平泉で敵の矢を受けてたときの「立ち往生」の話は有名ですが、実は実在の人物かも不明とか。
え?こんなに全国にその痕跡が残っているのに…、不思議なことですね。
全国に伝わる「弁慶伝説」をこれから調べていきたいと思います。
みなさん!「義経伝説」そして「弁慶伝説」も語り合っていきませんか。
地名や史跡にまつわることがありましたらお知らせください。
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2005年11月28日
2005年11月27日
義経 勧進帳
関守富樫泰家は、だれも通らない関守にすっかり怠慢生活だったのだろう。
それにしても、手配されている義経主従と全く同じ風体の一行が現れたときにはすっかり確信したのだろう。ときめく鼓動をゆっくりと押さえながらじりじりとおいつめていく、なんとも感動を呼ぶ名演技でした。関守富樫を演じた石橋蓮司さんはすごい。
最初は、頼りないような感じだったのに、敏腕関守に変わっていくにつれて、もうドキドキ。見破る時のあの鋭い目つき。その上、あえて見逃すという人間くささは、まさに、人情たっぷり。勧進帳に魅せられている日本人の心をとらえた考えられている名演技でした。
義経伝説を行く 勧進帳
兄の源頼朝に追われる義経が奥州平泉へと落ちのびる途中の文治3年(1187年)、山伏姿で安宅の関にさしかかる。
関を越えようとしたその時に、関守富樫泰家に見とめがられ、詮議の問答が始まる。弁慶は白紙の勧進帳を読み上げて、強力に身をやつした義経をかばう。しかしなお顔が似ているという関守の前で「義経に似た貴様が憎」いと義経を打ちすえする。その忠義の心に感じた富樫は義経と知りながらも一行を解放し、関を通してしまう。
義経伝説を行く 安宅の関、それとも念珠関か?
念珠関(ねずがせき)は、白河関、勿来関と共に奥羽三大関所の一つに数えられる関所。江戸時代には「鼠ヶ関御番所」と言われ、明治時代に関所が廃止されるまで重要な役割を果たしてきた。
現在は大正時代に立て替えた柱や石垣の一部が残り、古い番所は今でも民宿として利用されている。
頼朝の追討を逃れて奥州に向かう源義経が海路を北上し、ここ念珠関で上陸したという説から、有名な勧進帳の舞台になった所ともいわれているのだが…。地元でもそう信じていて疑わない人が多い。
しかし、歌 舞 伎18番「勧 進 帳」は、各所で見せた弁慶の活躍を加賀の安宅関1ヶ所での出来事のように集約し作られたものであると考えるのがいいのでないか。
NHKの「義 経」は本日放映「安宅の関」ではこの辺りをどう描くのだろうか?
山形県内の義経行程図<文治3年(1187)の奥州下り>芳賀由也氏HPより引用
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2005年11月26日
義経伝説を行く しずやしず
伝説によれば、頼朝に追われた義経の後を追い、福島県郡山市に着いた静御
前は義経の訃報を聞いて身を投げた池は、美女池呼ばれ、後に供養のために静御前堂が建てられた。
その連絡を郡山で聞いた静御前は、翌日、郡山の地元で世話になった人たちを集めて、義経供養に舞を披露すると申し入れた。
宿泊していた長者屋敷には舞台があり、鎌倉八幡宮と同じように、静御前は白拍子姿となって舞う。その後、「京に戻る」と言い残して、静御前は近くの美女池に身を投げた。文治5(1189)年。22歳だったと伝わっています。
*写真は、「南陽市の菊祭り」より
静御前は、文治元年、源頼朝に鎌倉に招かれ、鶴岡八幡宮にて頼朝と政子夫妻の前で、
「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
「しずやしず賤のをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
と歌を歌います。義経を恋う、強い思いたっぷりの歌を聞いた頼朝は激怒したそうですが、政子に諭されて、幽閉を解いて京へ帰ることを許したと言われています。
容姿端麗な静が 義経への想いを、扇立烏帽子、太刀をはき、男装で舞ったとされていることから、毎年4月、鎌倉祭りのイベントとして「鶴岡八幡宮舞殿」にて静の舞いが奉納されています。
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2005年11月25日
義経伝説を行く 義経の恋
青森県の八戸市には、義経が三陸海岸に沿って船で逃げのびて来たという伝説がある。ここ八戸は南部馬の産地として有名だった。頼朝に追われて、決戦も覚悟していたのだろうか。
地元のおがみ神社所蔵の「類家稲荷大明神縁起」に詳細に載っているそうだ。
義経は、思い出多い平泉を後にし海路で八戸に上陸した。そしてここで暮らしたという。それが、源氏囲内(げんじかこいない)という地名として今も残っている。
また、義経は、水汲みに来た土地の娘と結ばれたという地域の伝説をもある。
義経に見初められたその娘は、義経自身の名前から「判官」(はんがん)という姓を授かったという。しかし同じ名前では畏れ多いとして一文字を変えて、「法官」(ほうがん)と名乗ることにしたという。また町はずれには「高館(たかだて)」と呼ばれる丘があり、義経が平泉の「高館(たかだち)」に重ね合わせたためその名が付いたといわれている。 現在も法官家は地元には多い。
これらから、義経が北海道を経由して大陸へ渡り、数々の武勇をもって大陸を治めたのもますます史実に近くなってくるがどうだろうか。
2005年11月23日
義経伝説を行く 義経の巻物
義経の巻物と言うと弁慶の勧進帳を思い出すけど、別の巻物が今も伝えられている。それは、義経一行が一宿一飯のお礼にと巻物を進呈して行ったものと言う。
←山形県の真室川町。
この山間の里に、山伏に姿を変えた義経一行に宿を頼まれた。旧家佐藤家では、一行を義経とは気付かず、自分たちと同じ大根と蕪の漬け物を食べさせた。そのお礼にと、義経たちが置いていった巻物が今も残り、佐藤家ではそれを代々ご神体として神棚に祀られているという。あとで、あのご一行は山伏姿に身をかえた義経一行と知り、大いに後悔したそうだ。それ以来毎年、旧暦10月15日に佐藤家では鮭の切り身と里芋をみそで味付けした特別な鍋料理を作り、神棚に捧げている。
かつて義経一行に質素な大根の漬け物しか出せなかった先祖の思いが今守られ伝えられ、年に一度、たくさんの人たちが見守る中、ほんの数秒だけ大日様のご神体がご開帳されていてその見え方で運勢がわかるそうだ。
紅葉もいいけど、山茶花も最高
山茶花は(サザンカ)はツバキ科ツバキ属の常緑樹だそうです。
わたしには、椿との区別はつかいのだけども、花の時期が違うぐらいしかわからない。
冬が近づき、美しい紅葉が終わる頃、庭先に山茶花が咲き始める。どこか寂しい季節に、彩りを与えてくれる貴重な花です。サザンカの原種は白い花を咲かせるということをききました。今、身の回りで見られるのは、園芸品種で、白のほか、紅、桃、ぼかしなど濃淡さまざまで、花のかたちも一重、八重、千重、獅子咲きなど、大きさも直径10センチメートルを越える大輪から小さなものまで様々です。
紅葉の終わりに、寂しい気分のときに、まぶしい朱色の山茶花は心をあたためてくれますね。
2005年11月22日
知恩院の七不思議
京都知恩院。徳川家光が建てた浄土宗の知恩院。ここには、「忘れ傘」「抜け雀の襖」などの七不思議が伝わる。
御影堂正面の軒裏には、骨ばかりとなった傘がみえる。これが「わすれ傘」のいわれの始まり。
左甚五郎が魔除けのために置いていったという説と、知恩院第32代の雄誉霊巌上人(おうよれいがんしょうにん)に御影堂を建立されると、白狐の住処がなくなるので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいと依頼したと言う。それをかなえてくれたお礼にこの傘を置いて知恩院を守ることを約束したとの言い伝えがある。
その後、傘は雨が降るときにさすことで、火災からのお守りとして今日も信じられている