義経伝説

2005年12月05日

わたしの義経 凧絵4

わたしの「義経」です。

「一の谷の合戦図」です。凧絵です。

我が家の義経 凧絵です

 

 

 

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2005年12月04日

義経伝説の始まり 北の王者の死4

秀衡の死が…(NHK「義経」より)中尊寺金色堂奥州・藤原氏は、豊かに産出する砂金をもとに平泉に荘厳華麗な文化の花を咲かせます。日本屈指の大都市がみちのくで繁栄を誇ったのです。
鞍馬山を出た義経が平泉に向かったのは16才のとき。なぜ平泉に向かったのかは諸説あります。
北の王者といわれた藤原秀衡は、義経をあたたかく迎えてくれます。義経は、弓馬を、奥羽の山野を駆け巡りながら、鍛錬に励むのを日課として、6年の年月を平泉で過ごしています。
平家討伐後、頼朝から追われる身になり、義経は再び秀衡のもとに身を寄せました。変わらぬ愛情で迎えてくれた秀衡でしたが、秀衡が1187年に病死後状況が変わります。息子の泰衡は、頼朝に従い義経を襲撃し、ついに義経は1189年衣川の館で自刃し31歳の短い生涯の幕を閉じたというのが史実とされています。
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2005年12月03日

義経伝説を行く 一ノ谷4

 「一ノ谷合戦・二度之懸図屏風」(岐阜博物館蔵) 義経と兄範頼は一ノ谷に向けて出陣。範頼率いる一万余軍は、生田の森正面へ。鵯越の逆襲一方義経は三千余騎を従え一ノ谷の後方に進んだ。  義経は、途中、三草山での戦いを夜襲により制し、一ノ谷平氏本陣の背後、鵯越に兵を進めた。しかし、そこは人馬が駆け下りることは不可能と思われる岩壁の頂上だった。、義経は、自分を手本にせよと言い、先頭をきって駆け下った。それに続いて大勢が一気に駆け下った。これが世に言う「鵯越の逆落とし」という奇襲戦法である。「鹿が降りられるところを馬が降りられないはずはない」といったエピソードは有名。
 義経軍が不意をついて下りてきたため、平氏軍は混乱。安徳天皇をはじめ平氏軍は沖の船に逃れ、屋島へと敗走を始めた。
 しかし、ここでの疑問は、全く土地勘がない義経がなぜ、3日ばかりでここを攻略できたのかということだ。ここに戦の天才といわれる伝説がうまれる所以がある。
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2005年12月01日

義経伝説を行く 如意の渡3

勧進帳「安宅の関」の原型となったと言われている。義経一行が北陸道を平泉の藤原秀衡を頼って奥州へと逃げる途中、渡守の平権守(たいらのごんのかみ)に、「判官殿だ」と怪しまれるが、「弁慶が「加賀の白山より連れてきた御坊だ」と言って、嫌疑をはらすために扇で義経を打ちのめすという機転で切り抜け、無事に乗船できたという一節」は、かなり有名な話となっている。

ここ「如意の渡」は、「義経記」によると、源義経が1187年、奥州に落ち延びる際に通ったと伝わる渡船場。渡守に正体を見破られそうになるが、嫌疑を晴らすために弁慶が扇で義経を打ちのめした。歌舞伎の「勧進帳」の原型となったという。 しかし、安宅の関などと比べると、知名度的には今ひとつだが、しかし…。

 

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2005年11月29日

義経伝説を行く 五条大橋2

現在の五条大橋義経に忠誠を誓う義経の家来となる武蔵坊弁慶については、義経同様に「義経記」に縷々述べられています。また、全国各地に「弁慶伝説」も伝わっています。
京都の五条大橋で出会ったこと、平泉で敵の矢を受けてたときの「立ち往生」の話は有名ですが、実は実在の人物かも不明とか。
え?こんなに全国にその痕跡が残っているのに…、不思議なことですね。

 全国に伝わる「弁慶伝説」これから調べていきたいと思います。
 みなさん!「義経伝説」そして「弁慶伝説」も語り合っていきませんか。
 地名や史跡にまつわることがありましたらお知らせください。

 

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2005年11月27日

義経 勧進帳4

勧進帳(NHK義経より)名演技の富樫泰家(NHK義経より) 関守富樫泰家は、だれも通らない関守にすっかり怠慢生活だったのだろう。
 それにしても、手配されている義経主従と全く同じ風体の一行が現れたときにはすっかり確信したのだろう。ときめく鼓動をゆっくりと押さえながらじりじりとおいつめていく、なんとも感動を呼ぶ名演技でした。関守富樫を演じた石橋蓮司さんはすごい。
 最初は、頼りないような感じだったのに、敏腕関守に変わっていくにつれて、もうドキドキ。見破る時のあの鋭い目つき。その上、あえて見逃すという人間くささは、まさに、人情たっぷり。勧進帳に魅せられている日本人の心をとらえた考えられている名演技でした。

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義経伝説を行く 勧進帳3

弁慶勧進帳を読み上げる弁慶名演技・勧進帳を朗詠する(NHK「義経」より)  兄の源頼朝に追われる義経が奥州平泉へと落ちのびる途中の文治3年(1187年)、山伏姿で安宅の関にさしかかる。
 関を越えようとしたその時に、関守富樫泰家に見とめがられ、詮議の問答が始まる。弁慶は白紙の勧進帳を読み上げて、強力に身をやつした義経をかばう。しかしなお顔が似ているという関守の前で「義経に似た貴様が憎」いと義経を打ちすえする。その忠義の心に感じた富樫は義経と知りながらも一行を解放し、関を通してしまう。

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義経伝説を行く 安宅の関、それとも念珠関か?4

義経上陸の地念珠の関跡念珠関(ねずがせき)は、白河関、勿来関と共に奥羽三大関所の一つに数えられる関所。江戸時代には「鼠ヶ関御番所」と言われ、明治時代に関所が廃止されるまで重要な役割を果たしてきた。
 現在は大正時代に立て替えた柱や石垣の一部が残り、古い番所は今でも民宿として利用されている。
頼朝の追討を逃れて奥州に向かう源義経が海路を北上し、ここ念珠関で上陸したという説から、有名な勧進帳の舞台になった所ともいわれているのだが…。地元でもそう信じていて疑わない人が多い。
 しかし、歌 舞 伎18番「勧 進 帳」は、各所で見せた弁慶の活躍加賀の安宅関1ヶ所での出来事のように集約し作られたものであると考えるのがいいのでないか。
NHKの「義 経」は本日放映「安宅の関」ではこの辺りをどう描くのだろうか?


 山形県内の義経行程図<文治3年(1187)の奥州下り>
義経一行のルート
芳賀由也氏HPより引用
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2005年11月26日

義経伝説を行く しずやしず4

 伝説によれば、頼朝静の舞に追われた義経の後を追い、福島県郡山市に着いた静御しずやしずと呼んでいる(NHK「義経」より)前は義経の訃報を聞いて身を投げた池は、美女池呼ばれ、後に供養のために静御前堂が建てられた。
 その連絡を郡山で聞いた静御前は、翌日、郡山の地元で世話になった人たちを集めて、義経供養に舞を披露すると申し入れた。
 宿泊していた長者屋敷には舞台があり、鎌倉八幡宮と同じように、静御前は白拍子姿となって舞う。その後、「京に戻る」と言い残して、静御前は近くの美女池に身を投げた。文治5(1189)年。22歳だったと伝わっています。
 *写真は、「南陽市の菊祭り」より

静御前は、文治元年、源頼朝に鎌倉に招かれ、鶴岡八幡宮にて頼朝と政子夫妻の前で、 
 「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき
 「しずやしず賤のをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
と歌を歌います。義経を恋う、強い思いたっぷりの歌を聞いた頼朝は激怒したそうですが、政子に諭されて、幽閉を解いて京へ帰ることを許したと言われています。
 容姿端麗な静が 義経への想いを、扇立烏帽子、太刀をはき、男装で舞ったとされていることから、毎年4月、鎌倉祭りのイベントとして「鶴岡八幡宮舞殿」にて静の舞いが奉納されています。
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2005年11月25日

義経伝説を行く 義経の恋3

「源氏囲内」という地名がそえを伝えている 青森県の八戸市には、義経が三陸海岸に沿って船で逃げのびて来たという伝説がある。ここ八戸は南部馬の産地として有名だった。頼朝に追われて、決戦も覚悟していたのだろうか。
 地元の
おがみ神社所蔵の「類家稲荷大明神縁起」に詳細に載っているそうだ。
 義経は、思い出多い平泉を後にし海路で八戸に上陸した。そしてここで暮らしたという。それが、源氏囲内(げんじかこいない)という地名として今も残っている。
 また、義経は、水汲みに来た土地の娘と結ばれたという地域の伝説をもある。
義経に見初められたその娘は、義経自身の名前から「判官」(はんがん)という姓を授かったという。しかし同じ名前では畏れ多いとして一文字を変えて、「法官」(ほうがん)と名乗ることにしたという。また町はずれには「高館(たかだて)」と呼ばれる丘があり、義経が平泉の「高館(たかだち)」に重ね合わせたためその名が付いたといわれている。 現在も法官家は地元には多い。
 これらから、義経が北海道を経由して大陸へ渡り、数々の武勇をもって大陸を治めたのもますます史実に近くなってくるがどうだろうか。

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astroboyatom2005 at 05:27|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)